無気力精神でゴー
人間誰にだって躁鬱は存在します。常にいつも同じテンション同じ気分、そんなこたありえません。
何をやってもうまくいく、いえーい俺って天才だぜー矢でも鉄砲でも持ってこいべらんめい、と究極のポジティブ思考の時もあれば、ふんだどうせ俺なんて何やったってダメに決まってるんだカミソリのひとつでも貸してくれよ安らかに眠らせてくれ、と究極のネガティブ思考になる時だってある。
常にどちらか一方なんてことはありません。両方あってこその人間、それを受け入れてこその人間なのです。
さぁ、受け入れましょう。そして新しい自分を発見するのです。
って俺はどこぞの宗教屋かい。我ながらうさんくさいな。でもここまでわざとらしく書かないと本気にされるからなぁ。
でもこうゆう説教がうまかったりするとそれだけで池田某とか大川某とかのように一財産築ける訳なんだよな。うらやまし・・・・・いやいやいや。
別に宗教批判をしたい訳じゃなくって。そうゆう概念なんざ関係なく、人間のハイ&ローなんてあって当たり前だよなぁ、と思うところありましてね。
現に私の文章って結構そうゆうところありますよ。誰かれ構わずケンカ売りまくる(=躁)かと思えば、自己の存在完全否定していじけてる(=欝)しね。しかもひとつの文章の中で頻繁に躁と欝が入れ替わるでしょ。
まぁ文章に関しては脚色っつーのが存在しますので、意図的に両者入れ替えたりもするんですけど、実生活の中では圧倒的に欝にいることの方が多いです。躁が全面に出るなんて年にそう何回も無いですねぇ。
以前、とある精神科医さんのWeb覗いてた時に「人間なんて多少欝になってる位でちょうどいい。なんとかしなきゃじゃなくてどーでもいいやと思える位なのがいい」といった主旨の文章読んで「あ、やっぱりそうなんだ」と安心したことがありますよ。
お医者さんがそう言ってたから、つー訳でもないんですけど、「あ、別にいいんだね」てな感じで。
なんだかんだで背負うもんが多すぎるんですよね。責任だの義務だのプライドだの。で、結局それらに押し潰されちゃって他人様に迷惑かけてしまう。それくらいだったら、なんもかも放棄しちゃって、他人様に迷惑かけることなくふさぎこんでいた方が結果的には自分も他人様もシアワセになったりするんよ。
なんかこう考えると結構気がラクになるもんだよ。斉藤和義も「とりあえず今夜はこの辺で良しとしよう あとはテレビでお茶を濁そう」「縦横無尽 自由自在 憧れはあるけれど 変わらないこともひとつの才能」等と唄っております。いいじゃんかダウナー思考で。これからも無気力精神でご〜ご〜。お〜〜〜っ。
という話を世間一般、会社とか学校とかで喋ると途端に集中砲火浴びるんだろーなー。
「自覚が足りん!」だの「甘えるな!」だの「己の立場を考えろ!」だの「言っていいことと悪いことがあるぞ!」だの「人間のクズ!」だの「これだから雑文書きは!」だの。
なんか自分で書いてて腹立ってきた。むかむか。なら書くなよ俺。
いやね、やっぱこの世界、なんだかんだで自ら躁になることを必要以上に要求されるような気がするんですよね。
去年、「癒し」って言葉が流行ったでしょ。この単語が支持された一方で、これを批判する声もあったのを覚えてません?「社会のせいにするな」だの「逃げるな」だの「何の意味もない」だの、いかにも血のしたたるステーキばくばく食べてそうな、顔面脂ぎってるおっちゃん達が声高らかに叫んでたよね。ステレオタイプな例えだなおい。
これなんかある意味、躁強制論の典型になるんじゃないですかね?私には、躁はいい、欝は悪い、の決め付けにしか思えなかったんですけどね。
どっちも一長一短でしょこんなん。長々と説明するまでもなく、どっちがいいとか決め付けるようなもんじゃねぇよ。
どっちか一方に決め付けちゃってるんだろうね。どっちかを善か悪に仕立てあげなくちゃ気が済まない。一番の問題はここにあるような気がするな。
そもそも私が毎回のように逃げろだのすっぽかせだの言うのだって、いわば死んでも前に進め的思想へのアンチテーゼ的要素が非常に強いしね。結局はバランス感覚なんだろうし。状況に応じて臨機応変に使い分ける。もしくは混ぜ合わせる。
今の世の中ではもうそこまで要求されちゃうのかもしんないね。生きてく上では。
ところで。書きながら今思ったのですが、今回書いてるこの文章って欝的文章なんでしょうかね?それとも躁的文章?
自分で書いてて言うのもなんですが、わっかりっませーん。えへらへら〜。
やべぇよおい。