悩んで進んで


 テレビほけーっと見てたんですよ。何もやる気しなくて。

 なんかこの数日間、どうにも雑文書くのもメール書くのもWeb見るのですらおっくうな気分になってましてね。年に何回かはあるんだよな、こうゆうすべてにおいて無気力になってしまう時ってのが。

 もうこうゆう時は無闇に精神状態に逆らわないようにしています。逆らうような気合なんぞどうせ振り絞ったって出てきやしませんし。とっとと寝支度を済ませ、お布団に入り、寝っ転がりながらテレビのリモコンをポチポチと。

 なんか面白いのないのかなぁ。今スポーツニュースやってっけど、どうせ巨人巨人巨人の一方的ファン報道に決まってるしなぁ。見る気しないよなぁ。なんかないかなぁ・・・あ、ウンナン出てる。これ付けっぱなしにしながら本でも読むか、等と思ってたんですが。

 いやぁ。びっくりしてしまいましたね。思わず最後まで見てまいましたた。普段テレビ見ないくせに最後まで見てしまった自分にも二重でびっくり。その勢いのままこうやってキーボード叩いてます。あぁ明日も眠いんだろうなぁ。

 ご存知無い方のために軽く説明を。TBSの「ウンナンのホントコ」つう番組の中で「未来日記」という企画がありまして。詳しくはWebとかでも紹介されていますのでこちらをご覧頂ければ(なんか今後は本とかビデオとかでも出るそうです)と思うのですが、要は見知らぬ素人の男女にそれぞれ未来日記と称したシナリオを渡し、その日記通りにシナリオを演じてもらうと。まぁ恋愛ドラマの亜流みたいなもんですわな。

 ただ、この企画が普通のドラマと徹底的に違うのは、途中までは出演者もカメラを意識する「ドラマ」なんですけど、いつのまにか完全に出演者がマジモードになってしまう「ドキュメンタリー」に摩り替わってしまう点。

 ドラマだったら「カット〜」の声がかかると同時に出演者は素に戻りますが、「未来日記」の場合はカットが無いですもんね。いつまでも抱き合ったまま。これがウケる理由なのかな(逆にこのリアルさがひいてしまう原因にもなるんだろうけど、今回それは主題ではないのでおいておく)。

 以上説明おはり。

 んでねぇ。私が見た日ってのはたまたまスペシャル枠で。2時間枠の中の半分、1時間もかけてこの未来日記を延々とやってまして。これ見ながら「ほーっ」と思ってた訳なんですけど。あ、予め言っておくけど今回暴言控えめモードだからね。そりゃこの類のモノけなすのなんて赤子ひねるより簡単ですけど、けなしてばかりでも能が無いですし。別の視点見つけないと。

 で、何思ったかなんですけど、これってある意味究極のRPGなんですよ。自分で「自分」を演じるロールプレイ。

 おそらく、当人達の間ではシナリオがラスト近くになっても「これは番組なんだ」という意識は頭の中で残ってると思うんよ。「自分を演じてる」という自覚は完全には消えてないはずだ、と。

 でも、出会いから途中のプロセスから、全部シナリオによって用意周到に組み込まれ、凝った演出、巧みなタイムテーブルで周りがんがん盛り立てて。

 それらを強制的に埋め込まれることによって、「真にリアルな自分」と「演じてる自分」の両方が自分の中で闘い始めるんよね。この両者のギャップに悩んでる姿がまたむき出しになっちゃってて。正直な話、この両者の自我の揺れ動き方には「ほー!こうゆうもんなのかー!」と感慨受けてしまいましたよ。

 いやね、普通こうゆう類のものですと、大抵は「演じてる自分」が「リアルな自分」を侵食していって、いつのまにか演じてる側が本物になってしまいました、的なパターンがほとんどじゃないですか。

 少女マンガの吹き出し風に言うとこんな感じなのかな。

「・・・今まで私、本当の気持ちになんか気付きもしなかった・・・伸也さんの気持ちも気付かずに、自分勝手わがまま言って・・・・でも、今はわかる・・・伸也さんが私にとってどんなに大切な存在か・・・やっとわかったわ私・・・・・・まだ遅くない!今ならまだやり直せる!!」

 ・・・・・・ぐわー!!背中かゆいかゆいかゆい!!自分で書いてて違和感がアレルギーがジンマシンが!!こうゆうのって書いてて下ネタの数万倍こっ恥ずかしいぞ!!

 ぜぇぜぇぜぇ。慣れないことはするもんじゃねぇ。

 でもね、現実の姿見てると、こんな少女マンガ的ステレオタイプ思考なんざ風で飛ぶよな一面的なモノの見方でしかないことがよくわかるよ。

 画面節々の表情やセリフやら見てるとわかるんだけど、時折ふとリアルの自分(=演じているということに気付く自分)がふと出てくる時がある。これ、カメラ映してないときなんかもっと顕著なんだろうな。両方の顔が行ったり来たりで揺り戻しを頻繁に起こして。どっちが一方的になんて単純な思考にはならんもんなんよ。

 で、これって別に恋愛に限った話じゃないんだよな。例として恋愛話がわかりやすいから使ってる、位のもんでしかない訳で。

 人間、社会の中で生きていれば少なからずこうゆう機会あるじゃない。一言で言ってしまえばわすの嫌いな「ホンネとタテマエ」になってしまうんですけど。イヤだとは思いながらもタテマエをつく。でもそのタテマエに絶えられなくなる。どっち選んでいいのか悩む。両方が顔を出す。どっちも必要になっちゃって。時にはどっちがどっちなのかわかんなくなっちゃってパニくっちゃって。そのまま訳わかんなくなって逆ギレして商店街で道行く人を包丁でぐさぐさと。蛇足だぞ藤原。

 普段言ってる事と逆になっちゃうかもしんないですけど、結局はいつでもどこでもひとつの意見に決めちゃって筋通して、なんざ簡単にできるよーな事じゃないもんな。わすだってそうだもん。んなもんわかる訳ねーじゃんかってのもようけ抱えてるよ。

 だからこそ、いかにしてどっちにすんか悩んで決めて行くっつーのも「面白い作業」へと変化したりすることもある訳ですし。

 それでいいんじゃねーの?すべてがすべて早急に決めなきゃ死んじゃう訳でもねーでしょ。いいんよ時にはどっちつかずのままでも。時には止まって意見決めずに熟孝して。それはそれで価値あるもんだと思うよ。

 それにしてもたかがテレビの恋愛企画から、よくもまぁここまで話が飛躍できるもんだな。自分でも感心するわ。

 ゑ?それは単に恋愛ドラマ・ドキュメンタリーとして見ようとしていないだけ?そんなんだから彼女見つけようともしないんだ?

 反論できんではないか。


新着別 分類別
Index