去り行く人の背中


「おはようございます」
「あ、おはようございます」
「実は今日限りで退職することになりまして」
「先程連絡がありまして。話は聞いております」
「あぁそうなんですか。お世話になりました」
「いえいえ。短い間でしたけど、ありがとうございました」
「それでは今から手続きの方行ってきますので。失礼します」
「どうもありがとうございました」

 一分にも満たない、ごくごく手短なご挨拶でした。

 ここに至るまでの間に、彼女の胸の内にはどんな想いが交錯したのでしょうか。ここに至るまでの間に、我々に手は打てなかったのでしょうか。

 彼女が去り、一人オフィスに取り残される中で。

 いろんなことを考えます。


 私が現場復帰する前。

 会社の面接の時に、コーヒーを差し出してくれたのが彼女でした。そうですね、とりあえずYさんということにしておきましょうか。

 実際に私が入社することになってから聞いた話なのですが、Yさんもちょっと前に入ったばかり。実質的な職歴はなく、新卒のプログラマ見習い扱いという扱いで入社したそうで。雑務こなしてもらいつつ、プログラムに関しても勉強してもらおう、とのことだったらしいと。

 「まぁまずは社会人としての教育からでしょうねぇ」その時の上司の一人はそんなことを言ってました。その時は「ふーん」と相槌を打つ程度で、特な感想も抱きませんでした。

 その時の第一印象がそのままひきづる形になったのか。Yさんと言葉を交わす機会はあまりありませんでした。プロジェクトの関係でYさんのいる部屋とは別の部屋で作業していた関係もありまして。たまに電話の取次ぎ、それとお昼すれ違った際の世間話。週に合わせて5分喋るか喋らないか。この程度でした。

 したがってそれ以外の時間どんな指示をうけてどんな作業をしていたのか、プログラマとしてはどんな教育を受けていたのか。私にはこれらに関しては全くわかりません。

 ただ。そんな中でもいくつか「垣間見る」ことはできたんです。今を思えば、これもひとつのサインであったのだろうと思います。

 ある日、Yさんが別の社員のところにプリントアウトした紙(おそらくソースコード)を持って「すいません。お時間ありますか?教えて欲しいんですけど・・・」とやってきました。そん時私は打ち合わせ検討のため、たまたまそこにいたんです。

 しかしその社員は「ごめん、今ちょっと余裕無い。後にして。」と要求を拒否。Yさんはわかりました、後にします・・・と自席に戻っていきました。

 ちょうどこの頃からなんですよね。他の社員の抱える案件に仕様変更や納期変更が重なって、タスクがタイトになり始めたのって。深夜休日出勤も目に見える形で表面化してきましたし。

 ひょっとしたら、この時には既に「フォローは後回し」的な空気が形成されていたのかもしれません。

 皆が皆今日明日の自分が抱えているタスクに精一杯になっちゃって、周りのフォローにとてもじゃないけど余裕が回らなくなる。そのお鉢がYさんに回ってきてたんじゃないかな、と。


 また別の時にはこんなことがありました。

 22時位にさて帰りましょうかね、と別室を覗いてみると、Yさんが一人作業してます。

「あれ?まだいるの?今忙しいの?」
「あ、今○○さん出てまして。帰ってきて区切りつくまでは いた方がいいと思いまして」
「あー。待機要員かぁ。でも気をつけてね。ずるずると残ってると 帰るタイミング失っちゃうから」
「あ、はい大丈夫です。さすがにつらい時には帰るようにしてますんで」

 そんな会話を交わしたような気がします。

 でも、これもちょうどこの頃からでしたね。Yさんの帰る時間がズルズルと遅くなり始めたのは。周りが帰らない(帰れない)から自分だけさっさと帰るにも気が引けるだろうし。

 この辺にもジレンマが生じてます。プログラマとしてはまだまだ勉強中の身。でもその一方で山ほどある雑用の中では確実に戦力として数に入ってます。職歴経験もない彼女が果たしてこの矛盾を抱え込むことはできたのでしょうか。

 その時にも多少ひっかりはしたものの、結局は日々のタスクに押し潰される形で、記憶からも抜け落ちてしまいました。この時点でもし私も含めて的確なフォローアップができていたら、違う結末に辿り着けたかもしれないのに。

 やっとそう考えられます。今になって。


 そんな中、ある日を境に、唐突にYさんと接する機会が増えていきました。

 きっかけは引越し。

 ただでさえタスク集中してる中での強行作業ですから、当然Yさんや私にも作業の嵐が降りかかってきます。やれ買い出しだやれ掃除だやれ梱包だと。右往左往しつつも体力使って作業こなしていくことになる訳で。

 Yさんは基本的に真面目でした。言われた作業には素直に従います。ちょっとおっとりした所があって、幾分スピード的に劣る部分もあるのですが、まぁその辺はご愛嬌。

 実はこの時点でいっこ、頭の中で考えてることがありました。もうすぐキックオフされるプロジェクト、規模の関係で私一人でタスクこなせる部分がこなせるかどうか、いまいち明白じゃなかったんですね。だったらYさんをプロジェクトに入れてもらって、実際に作業してもらいつつ覚えてもらおうかなと。

 基本的に吸収できる能力はありそうだし。これだったら大丈夫かなと。この引越しが終わったら上とちょっとかけあってみようかな。そんな空絵事を思い浮かべていたんです。

 無論、見事にその構想は音を立てて崩れ落ちる訳ですが。


 引越し作業は昼夜問わず、土日も返上して延々と行われました。もちろん私もYさんも駆り出されっぱなし。当然疲労もどんどん蓄積されていきます。へろんへろんのぼろんぼろん。いかにしんどかったかは前回書いた通り。

 私の顔色も随分と悪いですが。それ以上にYさんの顔色が悪い。

「大丈夫?人のこと言えた義理じゃないけど」
「大丈夫・・・じゃないですね。さすがにしんどいです」
「だよなぁ・・・しかしまさかプログラマで入社してこんな作業する ことになるとは、さすがに思わなかったなぁ」

 不意にYさんの声のトーンが下がります。いや、下がっていた、と言ったほうが正しいでしょう。その時はその微妙な差には気が付きませんでした。恥ずかしながら。

「フジハラさん」
「ん?」
「『こんなはずじゃなかった』って思います?」
「さすがにこれだけキツいとねぇ。自分はプログラマじゃなくって 引越し要員として雇われてるんかい!とか思うこともある」
「わははははは」
「まぁプログラマ稼業に戻るためにも早く片付けないとねぇ」
「そうですねぇ・・・」

 話はそこまででした。そのあとまた引越しに忙殺されたので。

 でも。Yさんにとってはそれで十分だったのかもしれません。


 その会話から3日後でしたか。それからも延々と引越しに振り回されてたのですが。

 Yさんが来なくなりました。理由:体調不良。

 始めは「あっちゃぁ。やっぱり無理してたのか」程度に単純に体のことだけを心配していたのですが、それを境に周りに不穏な情報が飛び交うようになりまして。

 そこで初めて繋がったんですな。

 以前の空気も。3日前の会話もすべて。

 やっちまった、てのが正直な感想でした。

 普段から雑用中心の仕事。(半人前とはいえ)プログラマとしての存在価値を認めてもらえなかった。育ててもくれなかった。そんなただでさえモチベーションの低い最中に降ってきた、尋常でない量の「無意味な」作業。これが彼女の持つガマンの限界値にトドメを刺してしまったのでは・・・私はそう推測しています。その原因を作ってしまったのも、私も含めて全社員の責任でしょう。

 もちろん本人に問い正した訳ではありませんし、今となっては連絡を取る手段すらありません。まるっきり見当違いをしている可能性もあります。

 けど、あながち間違いではないと思ってるんです。少なくとも、これまでのフォロー如何によっては、もうちょっと退職のリスクを抑えることができたかもしれない。それまでに一人の人間をプログラマとして独り立ちできる位には育てられたかもしれない。その上でもし辞めるとなっても、笑顔で「次の所でもがんばれよー」位のことは言えたかもしれなかったんですな。

 今となってはそれも空しく響き渡るだけですが。

 かくして貴重な人材を失う、ということになりました。これまで本人に支払われた給料はもちろんのこと、PCをはじめとする支給品や備物、本人をサポートするために失われた間接的な人件費。そしてこれまでにあてがわれてた時間。すべてパァ。また一からやり直しです。このコストは膨大ですよ。

 だからトム・デマルコが十数年前から指摘し続けているように「人材に代わりは存在しない」んです。「ダメだったら次の人」なんて発想、馬鹿げた戯言でしかないんですから。

 でも、それをちゃんと、頭でも体でも理解するには、あまりにも大き過ぎる「代償」を払ってしまったような気がしますね。

 実際に人ひとりを「潰して」しまった訳ですから。

 かつて私が「潰された」時と同様に。


 でもね。

 私自身はまだYさんが、「プログラマ」というものに対してだけはまだ絶望してないんじゃないか、と思う部分もあるんです。

 そんなことに救いを求めるのもヘンな話なんですけど。

 こんなことがありました。退社挨拶をする1日前。

 その日出勤すると、いつも通りにYさんが出社していました。無論この時点で話は耳に入っていたのですがその点には一切触れず、そしらぬ顔で一日仕事してました。時には引越し荷物の荷解きして。空いた時間には荷物の山の中からなんとか取り出したPCセッティングして。

 私は特に話し掛けるということもなく、そのままそっとしておいたのですが。

 Yさん、その時間使ってプログラミングしてたんですよね。

 特にそのコードを納品しなきゃいけないとか、そうゆう理由は無かったはずです。おそらく純粋に自分のためだけのコーディング。

 普通自分が辞める(もしくは辞めるかもしれない)直前に自分のためだけにコーディングなんてできると思います?私だったら絶対にやれない、意地でもやらないと思うんだけど。

 実際のところはこれもまた藪の中です。本人にとっては「決別のコーディング」だったのかもしれないですし。それこそ単に「暇つぶし」でしかなかったのかもしれない。

 でもなんか、そこに「意思」を感じたんですよね。「このまま終わってたまるか」的な空気を。

 背中から。ディスプレイを追う目から。発散されてるような気がしました。

 ですので、ここでは敢えてこの言葉で送らせてくださいな。所詮エゴと言われればそれまでかもしんないけど。

 「またどこかの現場でお会いしましょう」

 と。

 それがせめてものの償いです。


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