学習的無気力脱出法
なーんか最近物騒な事件が続いてますわーね。
個人的には以前に比べて監禁事件とかがやたら多くなったような気がするんですけど如何でせうか。ちょい前ですと新潟の長期監禁事件。あと最近では王子様と首輪なんてのもありました。テレビつければどこかしこで行方不明者の捜索番組とかやってます。
被害者を徹底的に絶望に追い込めるという意味では、監禁ってある種殺人以上に自己顕示欲を示せる犯罪ですから。こうドロドロした世の中ですし、残念ながらこれからも件数は増える一方なんでしょう。もはや警察さえいれば日本は安全なんてのは昔話。夜道の一人歩きは避けましょうお嬢様。
・・・・って何を箸にも棒にもひっかからない世間話してますか?とか言われそうなんですが。
まぁ長年デスマーチと関わってる(?)と、なーんか共通項があるよーな気もしてくるんですよね、てことで今回はこの辺の話でも。おぉ、久々に程良い文量の前フリだ(どぉでもええ>俺)。
この手の監禁事件が発覚して犯人が逮捕されますと、大抵こんな話が出てきます。「被害者は逃げるチャンスは無かったのか?」顕著なのは先の新潟の例ですか。首輪や手錠等で物理的拘束を受けておらず、犯人の監視が及ばない状況においても、結局被害者は逃げられなかった。正確に言えば「逃げる希望すら失っていた」とでも表現すべきか。ここら辺の話は「学習性無気力」「学習性絶望感」あたりをキーにぐぐっていただければ文献出てくるのですが。めっちゃかいつまんで話すれば、あまりにも絶望的な状況が故に、客観的な視点から見れば解決手段が明白にも関わらず、解決しようとする意志も気力も失ってしまっている喪失してしまった状態、と言うことができると思います。
まぁここまで書けばもうおわかりかと思うんですが。長期監禁された被害者の心境と、デスマーチに飲み込まれた当事者の心境。あながち似てないとも言い切れない、いやもっと簡潔に、似てると言ってもいいんじゃないのかなと。そんなことを考える訳で。
時折目にしたりするデスマーチ批判批判(?)のひとつにこうゆうもんがあります。
「デスマデスマって、本当に人が死ぬ訳でもなかろーに何をギャーギャー騒いでるんだボケが!被害者面してる暇があるんならやれることのひとつやふたつ見つかるだろ!それやってから文句言え!口先だけの妄想野郎!」
こんな具合で。実際に何もできないし実際に人が死んでるからこそデスマーチ唾棄し続けてるんですけどね。
でも実際の局面では、こんな罵声では無いにせよ「解決策はあるんだからそれをこなせ」的に突き放して終わり、てなパターンがかなり多いような印象を持ってます。まぁ言っちゃなんですけど一種の見殺しですよね。特に世間一般的に「できる人」「賢い人」程、こうゆう発言する人が多い気がしてます。
ひとつ指摘しておきましょうか。もしデスマーチの当事者が先の学習性無力感の状態に追い込まれているとするならば。いくら周りが何をしようが何を言おうが、全くの無駄です。極端な話すれば「これこうしてあれそうすればこう修正できるよ」と手取り足取り指摘したところで、当事者にはそれを実行する気力も希望も何もかも失ってます。ただゾンビのように仕事してるだけ。いや正確に言えば仕事してるフリをしてるだけ(「ゆとりの法則」p.76)。
そんな大袈裟な・・・と思われる方もいるかもしれませんけど。すべての冷静な判断能力を失ってしまうからこそのデスマーチ、死の行進なんですぞ?
まぁ脅してばかりでも何ですので。何故にそんな無気力状態が産まれてしまうのか、てのを考えてみましょうか。実は意図的にこうゆう状況を作り出すのは拍子抜けする位簡単だったりします。
- 学習的無気力人間の作り方
- 隔離環境を用意します。人里離れた工場等がお勧め。もちろんネット環境遮断。
- ありったけのSE/PGを放り込みます。
- 昼夜問わずひたすら閉じ込めます。悲鳴が聞こえても気にしない。
- 3週間待てばできあがり♪
こんな感じで。法律的に合法かどうかはともかく。
実際にはこれを故意ではなく無意識でやってしまうところが人間の恐ろしさなのですが。要は規模の大小というよりは外部との連絡(空気穴みたいなもん)があるかどうかだと思います。マジな話、全国で数百〜数千人のPG/SEはこうゆう環境に押し込まれてるんじゃないでしょーかね。
精神的に(時には物理的にも)隔離されてしまえば、今ある武器でやりくりするしか無くなりますし。外部から武器(知恵)も調達できない、今ある武器も役に立たない、そんな状況に四六時中追い込まれ続ければ、そりゃ立ち向かう気力も無くなってくるもんですわな。この辺の心境は経験があるだけによくわかる。
で、巷(どこの巷かは知らん)でよく言われている「火噴いてるプロジェクトにXPやその他アジャイルを適用しても絶対にうまくいかない」ってのも、実は半分位この学習的無気力状態、及びその生成過程に原因があるんじゃないのかな、てのを考えるんです。
鉄火場に放り込まれた当事者も、始めは各々の思い思いのやり方を試してみる訳ですわ。その時はまだ気力残ってるから。でも跳ね返される。一方で明らかに間違ってる(と思える)やり方をひたすら強要され、やっぱり結果ボロボロになる。
それ繰り返していれば、そりゃ気力も体力も磨り減っていく一方ですし、心情的にイヤにもなりますわな。そのうちどーせ何やったってうまくいく訳がない(←ここ重要、主観は客観に勝る)という感情が芽生えてしまう。そーなったらもう手遅れで後は絶望感を助長増幅させていくだけ。
不謹慎なのを承知で言わせてもらうと、監禁された被害者が諦めてしまう心情とメンバーがプロジェクトに絶望してしまう心情。ものすごく似てるような気がして仕方ないんですよね。でなきゃ、なんで「たかが仕事」で自殺しますか?
でまぁ、こっからは例の如く独断で突っ走らせてもらうんですけど。
理想論から言えば、本来ならプロジェクトをこうゆう状態に誘い込むこと自体が言語道断なのは言うまでもないんですが。残念ながら、総無気力/総絶望一歩手前なプロジェクトを如何にして寸前で食い止めるか、を考えた方が現実的なのかな、位に考えてます。それ位状況は悪いです。なので自殺の名所に「いのちの電話の立て看板&公衆電話」を設置するような対策の方が今は必要であり有効なのかなと。ヤな例えですが。
まぁ何はなくとも「空気穴」が重要なのかなぁ、なんてことを考えますね。要は中から外、外から中への風通しで孤立感絶望感を消していこうと。
中から外に関しては言うまでも無くですな。端的に言えば「帰れ」。
これ言うと「とんでもない。上司や顧客とのコミュニケーションも密に取ってるから問題無い(だから仕事しろ)」と抵抗する人もいるんでしょうが(というか99%抵抗されるんでしょうな)。
上司や顧客って、当事者にとっては「中」ですから。シャバの空気吸わせる、という意味では何の役にも立ってないどころか害悪です。
孤立感ってのは人の存在を意識し過ぎることで起こりますから。打ち消すためには赤の他人とテキトーなことくっちゃべってた方がいいんです。喋る相手がいない私みたいな人でも(をい)、本当に部屋で一人ぼっちで黙りこくってた方がまだ精神的にもまだ百倍マシ。
とにもかくにも「隔離されている」というある種の被害妄想から解き放たれること。そこから少しでも客観視できる能力/気力/願望といったものを取り戻すことが必要なんだと思います。
で、次に外→中なんですけど。
遠くで燃えてるものはなんでも綺麗に見えるように、よそのデスマーチ見て「あっはっはトラブってやーんの」と愉しむ(?)なんてことは少なからずやってるとは思います。ここの文章なんかある意味典型ですし。
それを単に見てるだけではなくて、「自分だったら・・」と想像してみて欲しいと。そしていざ自分が放り込まれた時のための「客観視トレーニング」として己の糧として欲しいです。
これまでもこれからもこの点は口酸っぱくして言い続けますけど、個人/組織に正常な判断力が喪失するからこそのデスマーチですから。これ読んでる貴方がどんなにカシコでも、いざ当事者となれば間違いなく成す術も無く巻き込まれます。これは断言しとく。
でもその時に「あの時はこうゆう見方してたよなぁ」という俯瞰的視点を思い出せるか否か。ここで生死が決まりますから。
よーく覚えておいてくれぃ。絶望しないためにも。